【第20回】社員が力を合わせてつくった夢工場 ~全社一丸体制で実現した創造型企業~(株)フジムラ 代表取締役 橋本 秀一氏(大阪)

橋本社長

(株)フジムラ 代表取締役 橋本 秀一氏(大阪)

工場外観

 住之江区北加賀屋、木津川沿いの一角に製造業を中心とした工場が建ち並ぶ「第2ナニワ企業団地」の案内板の角を曲がるとすぐ、「フジムラ」のロゴを配した建物があらわれます。社員の夢がいっぱいにつまった未来への拠点、(株)フジムラ(橋本秀一社長、大阪同友会)の新工場です。

 ナニワ企業団地の一角で製缶業を営む同社は、1980年に産声をあげました。立上げ当初から不渡りなど難題が降りかかりますが、持ち前のバイタリティーで乗り切り、安定に向かいました。橋本氏は、「自分はもともと夢のない人間でした。当時はこの会社も自分一代で終らせてもいいと考えており、毎年決算の時には『今閉めたらいくらか残るな』と思いながら経営していました」といいます。

忘れていた約束

 「運と度胸と勘だけで経営してきた」という橋本氏に、「夢のかけら」が舞いこんできます。仕事量を豊富に抱えていた12年前、人手が欲しいと考えていたころ、ある若者を紹介されました。彼は地元では評判の「悪がき」で、同級生でもあった娘さんから「あの子だけはやめとき」といわれるほどでした。

 橋本氏が「少し悪いぐらいがいいねん」と反対を押し切り、彼を会社に呼ぶと、彼は友達を連れてきました。橋本氏が二人とも雇おうと思った矢先、彼らは働く条件を提示してきました。「半年働いたら、半年間休みくれ」。理由を聞くと、波乗りに行きたいとのことでした。「まぁ半年もしたら忘れよるやろ」と安易にOKを出し、彼らをフジムラに迎えました。

 働きだすと、噂とは違いまじめに一生懸命働きます。半年が過ぎたころ、すっかり約束を忘れている橋本氏に、二人は「来週から休みます」と告げました。確かに約束したことなので、渋々OKの返事をし「もう帰ってこないかな」と思いながら、バリ島へと向う彼らを送り出しました。
 数ヶ月後、真っ黒に日焼けした二人が会社に現れました。「また明日からお願いします」という彼らを迎え、新しいフジムラが動き始めました。

会社の様子

 帰ってきた二人の若者は仕事だけはまじめで、日に日に技術を身につけていきます。そんな姿を見ていた橋本氏に、ある思いが芽生え始めました。「この子たちに会社を残したい」。これまでは自分一代で終る気だった橋本氏に変化が現れます。

そして生き残る会社になるために、ISO9000に挑戦しようと考えました。同時に経営の勉強をしようと、同友会へ入会することにしました。
 同友会で学べば学ぶほど、会社の先のことを考えるようになりました。「今までは貸し工場でいいと思っていたが、この子たちに自社工場を残したい」。夢がないといっていた橋本氏に夢ができ、その夢は具体化されていきました。

 まずは工場の場所ということで、創業時にお世話になったナニワ企業団地内に100坪前後のスペースをと考えました。しかし2008年前半まではまだ地価も高く、坪70万から80万、バブル時代には坪200万の値がついていました。
 ところが、2008年後半にリーマンショックが起こり、年が明けて2009年1月、ある物件の話が舞い込みました。倉庫で使っていたところが倒産し、空きが出たのです。倉庫なので工場には向かないだろうと思いながらも、よく見てみると柱もしっかりしており工場として使えそうでした。

 「物件を見てしまったら、もう寝ても覚めても欲しくてたまりません。生まれて初めて強い欲が出てきました。今なぜ、あんなに欲が出たのかを考えると、自分のことではなく社員のためにと思ったからなのでは」。橋本氏は当時をこうふり返ります。

不況は「フジムラに工場を買わせるため」

 よく同友会では「強く念じれば夢がかなう」といわれます。それまでは自分には関係のない言葉だと思っていましたが、これを自ら実感することになりました。
 入札では、銀行がこれまでの取り組みや若い社員さんたちをみていたようで、全面協力を申し出てくれました。しかし、入札額で悩みます。最後に下した結論は自分の年齢が57歳なので坪57万と決めました。「これまで運と勘だけできた人間やからこれでいいねん」と、周りと自分にいい聞かせての決断でした。
 結果、みごと落札。当時リーマンショックによる大不況で仕事もなく、社内には不安感が漂っていました。橋本氏は全社員へ「この大不況はフジムラにこの場所を買わすために起こったんや。この工場として立ち上がったら、不況もどこかいきよる」と励ましました。「本当は不安に押しつぶされそうな自分に言い聞かせていたのです」と橋本氏はいいます。

夢工場プロジェクト スタート

 ところが、落札した倉庫の現状を見て、社員たちは愕然とします。そこには前の会社が残していったゴミの山。毎日仕事を終えてからの片付けで、ゴミ捨てだけで1週間かかりました。
 その中で「今仕事があまりないから、自分たちで工場をつくれるのでは?」という考えが浮かびます。倉庫を工場に変えるにはクレーンの取り付けや、2階3階のフロアの床を一部分剥がして吹き抜けにする仕事が必要ですが、これを自分たちで行おうというのです。
 また、若手社員たちに聞くと、内装工事や電気工事をしている友達がいるとのこと。橋本氏は「その子たちも仕事がないんやろ?それやったらお願いしたれ」。そうしてフジムラの若手社員を中心に、若い職人たちが集まりだしました。「夢工場プロジェクト」…今まで夢をもっていなかったという橋本氏がこの工事を命名し、この名前で全員のモチベーションが一気に高まりました。

 2階3階の開いているスペースを、今まで取引している外注業者に貸し出すことを考えました。家賃収入よりも、外注業者が工場中に入ることにより、運搬などの費用がなくなり、夢工場内でフジムラのモノづくりのネットワークができ上がる。夢をもったからこそ出てきた構想でした。

輝く社員と輝く工場

 「夢工場プロジェクト」はゴミ処理の後も難題が山積みでした。まずは、2階3階のフロアの床抜き。そこから、製缶工場に不可欠な天井クレーンの取り付け。全員が知恵を出し合い一つ一つ解決していきます。
 仕事の合間や終業してからの作業なので、なかなか進みません。合間に関係者全員で工場内でバーベキューをおこなって気分転換もはかりました。2009年6月2日にフジムラ30周年と合わせて夢工場披露パーティーが決まっており、5月のゴールデンウィークもすべて「夢工場プロジェクト」でつぶれたのですが、だれからも不満が出ませんでした。最後の1週間は夜遅くまでの作業になりましたが、一丸体制で乗り切りました。

 6月2日当日、228名の来客を迎え、30周年を祝いました。笑いあり、涙ありのパーティー会場、一回り大きく成長し、胸を張っているフジムラの社員たちが一番輝いていました。

働きやすい環境づくり

 みんなでつくった夢工場は、隅々まで3Sが徹底しています。製缶工場でありながら玄関で上履きに履き替え、工場内も室内用のスリッパで歩くことができます。壁面に大きなロゴがありますが、実は屋上にも描かれていて、航空写真を撮ると「フジムラ」が見えるのです。

 天井には断熱材を惜しまず使用し、暑さ寒さの影響の緩和をはかりました。会議室兼用スペースには卓球台も設置し、社員が働きやすい環境をつくるようにしました。工場では若者たちとベテラン社員が一緒に、生き生きと働いています。
事務所に隣接してキッズルーム(託児室)を完備し、子連れの社員も安心して働けるようになっています。地域貢献の一つとして企業団地で初めてAEDを設置しました。橋本氏は立ち机を使用し、いつでも動く姿勢とフットワークを確保しています。

 「夢工場プロジェクト」を通じて、今まで社長に意見が言えなかった社員たちも、今ではどんどん意見がいえるように成長してきました。橋本氏は「私は、この夢工場プロジェクトを通じて彼らに育てられた」といってはばかりません。

会社概要

設 立:1980年6月 
資本金:1,000万円
年 商:2億円
業 種:製缶業
従業員数:9名
所在地:大阪市住之江区北加賀屋4-4-20
TEL:06-6686-7060
URL:http://www.kk-fujimura.jp/company.html