【特別版】後継者として社員と心を合わせ、自社の魅力でどのように未来をつかむか? (株)東都ラバーインダストリー 代表取締役 柴田 玲氏(埼玉)

柴田玲社長

(株)東都ラバーインダストリー 代表取締役 柴田 玲氏(埼玉)

入社の経緯と同友会入会

事業承継については、「好きなことをやりなさい」とずっと言われ続け、父親からは一度も「会社を継いでほしい」と言われたこともなかったので、私の中には会社を継ぐという選択肢はありませんでした。しかし、営業担当の社員が退職することになり、母親や親戚、会社の方など多くの方から会社に入らないかと誘われて1991年に入社しました。入社に関して父親からは良いも悪いも何も言われることはありませんでしたが、ただ入社するからには途中で辞めようとは一切考えませんでした。

営業職でしたが、夜は工場でものづくりもしていました。若い社員は自分だけで会社へ行ってもつまらない状態、同僚は入社しても1~2年で退職の繰り返しで魅力ある会社ではなかっのだと思います。このままではまずいと思いながらもなんとなく過ごす毎日でした。父親からは「社長は社員から認められないとなれない。社長の息子という理由だけでは社長にはなれない」と言われたこともありましたし、自分ではまだまだ先の事だと思っていました。入社して4年目に父親が体調を壊し代表を交代することになり、古くから一緒にやっていた専務が社長になりました。

その時私は営業職でしたが工場長を任されることになり、作業効率の悪い進め方に現場の社員と衝突し、時には退職に追い込んだこともありました。今考えると「人を生かす経営」のみじんもなかったと思います。業績自体もあまり良い方ではなく、経理を担当していた母親と叔母はいつも資金繰りに苦労している状態でした。

入社してから8年経った1999年に同友会に入会、父親が埼玉同友会の創立メンバーだったこともあり何となく入会しました。思えばこの頃から少し承継を意識し始めていたのかもしれません。

苦難の事業承継

入社9年目、少しずつ承継を意識し始め、会社を何とかしなければと埼玉同友会の経営指針づくりセミナーを初めて受講しました。しかし、課題を作成するにあたっては記入できないことが多く、当然理念も作れず方針や戦略などもほとんど出来ませんでした。会社を継ぐ立場でありながら何も考えてないことが身に染みてわかりました。 セミナーに参加することによって経営者の考え方が少し理解でき、会社を継ぐことに対する意識は大きく変わりました。31歳の時に周りからの影響もあり継ぐことを決意しました。この時の決意は、とにかく会社を立て直すことを最優先と考え、経営者としての責任や姿勢についてはあまり深く考えていませんでした。

2002年12月から社長交代をする予定で動き出しました。何から何まで全て自分で交代の準備を進めていることに不満もありました。ある程度会社の組織ができていて、資金もあり、後継する社長の息子は帝王学を学び、入社後もさまざまな部署で経験を重ねて社長交代、という私の持つ事業承継のイメージとは全く違っていました。

社長交代を予定していた半年前に取引先の企業が倒産し、4,000万円の不渡り手形を持ったことでいつ倒産してもおかしくない状態になりました。とにかく毎月5日の手形決済日に向けて金策に走り回る日々が続きました。本を読みあさり、周りの人に相談して、そのまま社長交代して承継するというA案と、新しい会社を起こし借金は前の会社で父親に背負ってもらうB案の二つの案に絞りました。ほぼB案に決めて今後の進め方について相談に行ったところ、弁護士から「B案で進めることによりどれだけの方に迷惑がかかるかわかりますか。自分のことだけ考えて軽々しくB案で進めてもうまくいくわけがない」と一喝されました。何もわかっていなかった自分に気づかされ、改めてA案での再建に覚悟を決めました。

以前、協力工場で働いていて年齢も近かったTさんが一緒に改善を進めるパートナーとして働いてくれることになり、会社再建に向けて再スタートしました。Tさんとは二人三脚、まさにパートナーという関係でした。ただ、会社の状況が状況でしたので、社長就任は1年延期で臨みました。毎日死に物狂いで働き、昼間は営業や通常業務、夜は資金繰りを含めた再建策を練り上げました。社内の生産性向上のために、助成金を利用して若手人材の採用を進め2名を採用しました。

承継することを決めて最終決意をするまでの間に、いろいろなことがありました。特にお金に関することです。人のずるい部分もたくさん経験しました。逆に協力して下さった人、励ましてくださった人もいて、厳しさとありがたさを学びました。承継を決意してから約2年かかって2003年に正式に社長就任となりました。

神風? 承継後の順風満帆な4年間

社長就任後4年間は順風満帆でした。当時自動販売機のお札を読み取る機械部分のゴムのローラーを手掛けており、日本でも有数のシェアを持つ自動販売機メーカーと直接取引をしていました。利益率も高い製品で、2004年に紙幣が刷新された際に機械も一新されたこともあり、特需となりました。社長就任後半年のことです。その後約1年間特需が続き、大幅な債務超過から改善することができました。

3年目からは今まで一緒にやってきた会計事務所を変えたり、高校生の新卒採用も行ったり、フットサルチームもできたりと、社内も良い雰囲気になっていきました。人も育ち会社の体制も整いはじめ、手ごたえを感じていましたが、一方で自分が未来を思い描けていないことをなんとなく感じていました。社長就任から3年目の時に父親ががんになり、約1年間の病院生活の末、4年目に他界しました。この時の葬儀は会社と柴田家との合同葬儀でしたが、昔からの取引先の方やお客様がたくさん弔問してくれて「B案を選ばなくてよかった」としみじみ思いました。同時に、父親がいなくなり改めて経営者の責任の重さをズシリと感じました。

実は約5年間同友会を休んでいましたが、父親が亡くなっことをきっかけに悩んでいたこともあり同友会に復活し、すぐに2回目の経営指針づくりセミナーに参加することになりました。経営理念は社長就任時につくった時のままでしたが、5年目に向けて経営指針を作成しました。方針や戦略に中期ビジヨン、計画を立ててとりあえず完成しました。マイナスをプラスにしていくのではなく、自分の事業の強みや弱みを分析して、これからのことについて考えることができたのはとても大きなことでした。

天狗になっていた自分に気づく

経営指針が完成する少し前に、二人三脚でやってきたTさんが半年後に退職したいと申し出てきました。彼の決意は固く、できたばかりの経営指針を見せて一緒に頑張ろうと話しましたが、彼が思い留まることはなく、退職の時に「自分をパートナーとして見ないようになった」と言われました。彼に現場を任せきりになっていて、コミュニケーション不足もあり、パートナーとしての関係をうまく築けていなかったのだと思います。この時に作った経営指針は1年間引き出しにしまいました。

Tさんの退職が決まってから、新卒で採用した社員、立て直しのために最初に採用した社員、若手社員と約半年の間に相次いで4人が退職することになりました。たまたま神風が吹いて会社の立て直しはできたけれども、本当の意味での立て直しができていなかったのだと思います。経営者として天狗になっていたことに気づきました。その時は社員全員が敵になったような気がしました。もっと社員と向き合っておけば良かったと思いました。今考えると「労使見解」(中小企業における労使関係の見解)の実践への第一歩であったと思います。

「同友会での学び」と「企業づくり」

経営指針づくり、「労使見解」、「自主・民主・連帯」の精神、経営者の役割など、同友会でのさまざまな学びを通じて、経営者として少しずつ変化していったと思います。 私は特別ゴムが好きで憧れを持っていたわけではありませんし、事業承継を決意してから倒産の危機に見舞われるなど、社長就任後から父親の他界まで、経営状態が厳しい会社を引き継ぐことへの不満も大きかったというのが正直なところです。こんなに厳しく借金だらけの会社は身内しか継げないと思っていました。ただ、今では父親が創業して会社の歴史があったからこそ、自分が今、会社の経営を担っているんだという感謝の気持ちが大きくなっています。経営者の責任という部分では、社長就任当初はとにかく会社の立て直しが一番の使命と考えていました。そこからの私の変化を、科学性・社会性・人間性の点から考えてみました。

「科学性」の点では、数字の把握や、現状分析をして自社の立ち位置を把握し、変化に対応していくことは実践できたと思います。

「社会性」に関しては、顧客、仕入先、社員など身近な関係者への責任は感じていましたが、社会や地域への責任は考えていませんでした。経営指針づくりセミナーのスタッフとして毎年経営指針づくりのサポートをしていくなかで、自社を見直すことにもつながり、自身の経営者としての考えが少しずつ確立されていったと思います。

地域に関する視点を理解するのはとても難しく、中小企業憲章・中小企業振興基本条例の勉強会、例会などに参加しましたが、最初は全くピンと来ませんでした。それでも地元高校生のインターンシップを受け入れたり、親子工場見学の会場、地域のものづくりグループへの参加など、できることを重ねていくことで、会社の存在価値を高めていくことが地域のため、社会のためになることが実感できるようになってきました。事業を通じての企業使命、自社の存在意義が確立されてきたので、経営理念にも「ゴムで困っている人を助ける」を加えるなど、社会的な使命が入るようになってきました。

また、雇用については、以前は人手不足の解消のための雇用でしたが、社会的責任のある立場として地元から雇用することが大事と考え、現在は新卒者の定期採用を継続しています。

「人を生かす経営」への挑戦

「人間性」は、私にとって一番弱い部分でした。特に社員に対しては、会社を継いだばかりの頃は会社の立て直しを口実に手段の一部として見ていた面もありました。経営者・企業側からの視点が最優先となり、仕事の出来・不出来が良い人材・悪い人材の判断基準になってしまった結果が4人の退職につながっていったと思っています。

今も「社員の創意や自主性が十分に発揮できる社風と理念が確立され、労使が共に育ち合い、高まり合いの意欲に燃え、活力に満ちた豊かな人間集団としての企業」、同友会型企業づくりをめざしていますが、どう実行したらよいのかを悩んでいます。「人を生かす経営」の理解は深まっても、実践となるとハードルは高く、現実は難しいと感じています。

4名の社員が退職した後に採用した社員の中で、伸び悩む社員が出てきました。社員からはその者に対してもう面倒が見切れないとの声があがり、幹部社員と話し合う機会を多く持つようになりました。同友会での学びには「人間尊重の経営」は切り離せないものとありますが、当時は「人をクビにしてはいけない」ということが脳裏にあり、社員に対し何とか面倒を見てほしいとお願いするだけでした。そこには、彼がいなくなると仕事に影響するといった、会社都合の意識もありました。しかし、幹部社員にも人の良いところを見つけて伸ばそうとするという変化が出てきました。結果、彼は自分なりのペースで成長し、今では材料成形の部分は任せられるまでになりました。

そんな実践をしていくなかで、今は社員と向き合うことで一人ひとりの技術に合わせて対応していくことを大事にしています。とはいえ、「人を生かす経営」を実践する上での業績の確保であったり、社員の個性をないがしろにした経営者本意の経営になっていないかという迷いであったりと悩みは尽きません。それでも自分としては、人が育つ会社をつくっていきたいという思いはブレていません。

成果と課題から考えるこれから

経営指針を社内で共有することは難しく、なかなか社員全員を巻き込んでいく形にならないので、まずは幹部での共有を徹底しました。経営チーム会議を開催し、めざす方向、めざすものについて議論していきました。時間がかかりましたが、会社の方向性、仕事に対する考え方や取り組み方をすり合わせることができました。それが各部門の中で少しずつ共有できるようになってきました。また、『東都ラバー通信』を発行し、毎月給与袋の中に入れています。自分の思いや、会社がめざすものについて伝えることをしています。

新卒採用については、今までは年明けから募集して、まだ就職が決まっていない人を採用するという形でした。それはそれで経営者として大事なことをしていると思っていました。ところが、共同求人委員会の開催する合同企業説明会でブースを設けて出展してもだれも来ない時もあると聞き、そういう場でも選ばれる企業にならなければと考え方が変わりました。今年からは自社の魅力をもっと磨き上げ、客観的に判断していこうと思っています。

今後の課題は強靭な経営体質を築くことです。これからも良い時も悪い時もあると思いますが、それを社員と乗り越えられる力さえつけておけば厳しいときでも乗り越えていけると思います。そこに関してはしっかりと未来を見ているつもりです。

「事業承継」という点では、父親からは同友会を継いだだけで、あらたに自分が築いてきたものも大きいと感じています。もちろん歴史があって今があるのですが、事業承継にはさまざまな形があるかと思います。承継する側受ける側両方ありますが、それぞれの覚悟があればどんな形であれ良いのではと思っています。

会社概要

創 業:1964年
資本金:3,000万円
年 商:2億6,000万円、
従業員数:25名(内パート・アルバイト5名)
事業内容:医療用・工業用ゴム製品、オリジナルゴム製品、ラバースイッチの設計および製造・販売
所在地:埼玉県川口市上青木2-49-12
TEL:048-255-7525
URL:http://www.tri210.co.jp/