【第13回】先代を越えていくのではなく、進化させていく (株)タケナカ 代表取締役 小野 均氏(青森)

小野社長

(株)タケナカ 代表取締役 小野 均氏(青森)

 (株)タケナカ(小野均社長、青森同友会会員)は、1968年に採石業を手掛ける大明興発(株)として創業し、現在は各種建設機材の販売・整備・賃貸を含め8部門で建設総合サポートを行う、社員数46名の会社です。

 小野氏は1983年に同社初の新卒採用として、専門学校卒業と同時に入社しました。二代目として2001年に代表取締役に就任しますが、その翌年に会長を務めていた先代を病が襲います。社長就任から1年で、先代という後ろ盾を失った小野氏は「会長がいなければ、この会社はもう立ち行かなくなると思った」と言います。

根底に流れる先代の「組織」づくり

社屋

 創業者の竹内繁明氏(故人)は、産業機械を扱う商社勤務を経て、地元建設会社の子会社(採石業)に請われ、専務として入社します。しかし、程なくしてその親会社が倒産、そのあおりで自社も倒産。仕事を失った社員や取引先への責任感、また竹内氏個人で保証していた当時にして数千万円にのぼる負債返済のため、前身の大明興発(株)を創業しました。

 当時、中小企業の経営者は内に外に「親父(オヤジ)」と称されるのが常でしたが、竹内氏は「社長」と呼ばれることにこだわり、慣れ合いの意味での「ファミリー」を嫌い、「普通の人が努力することで幸せを手にできる『組織(継続するを意味する会社)』をつくりたい。だから、俺は『親父』ではなく『社長』だ」が口癖だったといいます。また、竹内氏は「身内からではなく、世間から『一流』と評価される人間になりなさい」も口癖として、社員一人ひとりが自己研鑚に励み、いつものびのびと仕事をしているかを気にかける、厳しくも情に厚い経営者でした。

責任の重さ、先を見通せない自分に恐怖する

業務の様子

 「継承して10年は先代と比較される」という言葉があります。病に倒れ療養を余儀なくされた先代・竹内氏は2006年5月に他界しますが、小野氏は「先代が最初に病に倒れたとき、鏡越しに見た、真っ青になって震えている自分の姿を忘れられない。それは、この先自分が歩む『後継者としての道』と、これまで目標とし、拠り所としてきた先代が不在になるということへの得も言われぬ不安からだった」と振り返ります。

 そんななかで、事業継承後の健在だったころに先代がとった行動が知らず知らずのうちに小野氏を救っていました。それは「任せたのだから、口出しはしない」という方針でした。はじめのうちは相談を持ちかけても「自分で決断しなさい」と言われ、突き放されたような気がして不満と不信感を抱きましたが、小野氏自身も次第に「こう考えて行動し、こういう結果になりました」と報告するようになり、自分の行動への自信と責任感を得ることができるようになりました。

経営指針づくりと先代からの「卒業」、そしてこれから

経営理念

 小野氏は青森同友会の第5期「経営指針を創る会」(2006年)の修了生です。当初は「会社は利益がすべて、利益の上がる理念がほしい、理念さえあれば利益が出る」と思い、指針づくりに参加していましたが、その最中に先代が物故。帰る場所を失ったような、心にぽっかりと穴が空いたような、精神的にも苦しい中で少しずつ心境が変化していきました。先代・竹内繁明氏が遺した「普通の人が努力さえすれば幸せになれる組織を残したい」という言葉の意味をかみ締め、働く場としての職場がいかに大切かを痛感します。また、その職場を存続させることもまた同様に大切だとの想いに至りました。

 経営指針づくりの修了式を迎えた小野氏は、これまで無意識のうちに先代に依存していた自分の甘えを戒め、先代が培った会社の社風を守り、発展させていく決意の現れとして「先代からの『卒業』」を宣言しました。

 今、次の後継者に経営を手渡していく立場になった小野氏は「社長になって15年、経営指針を成文化して10年、振り返ればあっという間のことでした。先代の遺志を受け継ぎ、社員も会社も成長していくことができるよう、これからも会社のテーマとして、お客様から信頼され、社会から信用され、人として成長する企業であるために、足りないことを補っていきたい」と想いを語りました。

会社概要

設 立:1968年
資本金:1,000万円
売上高:7億円(2015年)
事業内容:建設機材販売・修理・賃貸、建設機械重機土工、足場掛払い、パイル工事、
仮設トイレレンタルなど
従業員数:47名
本社所在地:森県青森市大字野木字野尻37番地734(青森総合流通団地内)
TEL:017-739-8888
FAX:017-773-8174
URL:http://takenaka-g.com/