【特別版】宮城同友会と共に歩んだ私の経営者人生 (株)佐元工務店 代表取締役会長 佐藤 元一氏(宮城)

佐藤元一会長

(株)佐元工務店 代表取締役会長 佐藤 元一氏(宮城)

(中同協第50回定時総会in宮城 第2分科会報告より転載)

 私は1972年、25歳の時に家業の建築業を手伝うために入社しました。当時は親父が大工と土木の人夫2~3人で、東北大学の営繕工事主体でやっていました。高度成長の時代で仕事はいくらでもあり、人より早く起き、遅くまで仕事をすれば、それなりに儲かり人も増えました。私は社員に「黙って俺について来い。ついて来たら幸せにしてやる」と言って仕事をしていました。工学系大学を出ていた私は現場監督の端くれのようなこともできて、何をやるのも部下より早くて自信を持っていました。いま思えば、社長の言うことは社員も協力業者も第一優先でやってくれるので、早くできて当然だったのです。当時はそのことに気がつかない、傲慢な姿勢でした。

宮城同友会への入会

 1974年3月に、宮城同友会が全国で14番目、東北では初めて設立されました。私は1976年5月に尊敬する大学の先輩から誘われて入会しました。初めて新会員歓迎会と称した飲み会に参加したときのことです。同業の会なら一番早く行って下座に座らないと小僧何をしているのだ」と言われるところを、同友会では会社の規模や年齢に関係なく、平等に扱ってくれたことに、新鮮な驚きを感じました。

 宮城同友会は当時100人ほどの会員数でしたので、私と同世代の仲間を一生懸命誘い、1976年に青年部を創設。毎年、青年経営者全国交流会に参加しました。

 頑張れば売上が伸びて利益も出るので、1978年には調子に乗って株式会社に組織変更して、社長になりました。資本金もゴーゴーにあやかって550万円。同年6月には宮城県沖地震があり、町には被害が出たこともあって、仕事はさらに忙しくなりました。

 社長になって最初の失敗は1979年です。工事高が1億円を超えた程度の規模なのに、1億5,000万円の工事を受注したところ施主が倒産して受取手形が不渡りになり、倒産の危機です。そこで初めて先輩から言われた「社長にはだれでも簡単になれるが、経営者にはなかなかなれない」という言葉の意味がわかりました。そして、会社経営は片手にソロバン、片手にロマンで、この相反する矛盾を抱えていかなければならないことや、安定した売上の増加にはリピート客の増加が必要で、安定した利益の拡大には、価格の決定権を握ることが大切であることなどを教わりました。この経験から、1.ダボハゼ経営はしない、2.分相応の仕事を受注する、3.現金主義で手形は一切もらわない・切らない、の三カ条を心に決めました。

社員をあてににしないダメ社長の末路

 第二の大きな失敗は、現場で指示通りに仕事が進んでいないのを見て「何やっているんだ、俺の言うことがきけないなら辞めろ」と言ってしまったことです。そのせいで、1年がかりでスカウトした建築部長は3カ月で辞めていきました。その後も毎月1人ずつ現場監督が辞めていき、8人だった社員が4人になり1989年には常務が会社をつくって辞めてしまいました。

 反省したことの一つは、言ってはならない暴言を部下の前で言ってしまった=反人間尊重経営であったこと。二つには、“小さな一流会社”を目標にしていたのでは人は育たない=会社に魅力が無い・夢がないということ。三つには、うわべだけの人間関係=酒の席で「頑張ろう」という意気投合は幻想に過ぎないことでした。すべて社員を当てにしていない、ダメな社長の末路でした。

 この失敗で痛感したことは、まず会社は社長一人では何もできないこと、社員をパートナーではなく手下にしていたことです。会社とは他人とともに、夢を持って自分の人生を全うする場であり、パートナーとは相棒なのです。そして、社長が自分の考えや夢を文章化して伝えることの大切さに気づきました。文章化することで、自分の考えや夢を検証し、整理でき、社員の皆さんにも伝わりやすくなり、理解も得やすく、積み重ねができて振り返りもできる。つまり、経営指針書の必要性に、やっと気づくことができたということです。

一人でつくった経営指針は空回り

 経営指針書作成の重要性を認識して、1989年に宮城同友会主催の「経営指針成文化セミナー」に参加し、自分一人で経営指針書をつくりました。「信用を重んじ、お客様第一を旨とし、堅実経営と技術の研鑚を通じて、社業の発展と社員の幸福を実現し、地域社会に信頼される会社を目指す」と理念を掲げましたが、社員と共につくっていませんからだれも了解しないし変わろうともしませんでした。

 “俺についてこい”から脱却できず、社長一人で苦労してつくり、「社員と共に」がない押しつけの経営理念で、退社する社員は減らず、理念の共有は困難で、朝礼での唱和も形式だけでした。

 ちょうど、バブルがはじけて業績もみるみる落ちていきました。社外環境は少子高齢化社会で、人口が減少してお客様が減る。孫夫婦は持ち家2軒で、老夫婦2組の面倒をみる時代になる。20年後には単独世帯が3軒に1軒で、住宅が過剰になる。量より質の時代になり、本物しか生き残れなくなると考えました。

 社内環境は、社員とベクトルが合わず、私は相変わらずお山の大将で、やめる社員も減らない。こんな状態でしたが、札幌で開かれた第25回中同協定時総会で他流試合をするために分科会の報告者として参加しました。結果は、メタメタに打ちひしがれて帰ることになりました。

 あらためて、わが社の受注が落ちているのは時代に合っていないからだし、相変わらず社員が辞めるのは、会社がみんなのものになっていないからだと痛感しました。でも、私が好きでやっている社長業なのだから、すべては社長の責任だと覚悟し、ゼロからの出発のつもりで第2創業を決意、1998年に「第9期経営指針を創る会」で再度経営指針書の作成に挑戦しました。

再度経営指針作成に挑戦

 「俺の会社」から「みんなの会社」へ生まれ変わるために、幹部と共に3カ月かけて作り、「俺が俺が」「俺についてこい」から卒業し、社長満足から社員満足へ、社員満足からお客様満足をめざしました。

 それまでも「労使見解」から学ぼうとは言っていましたが、次の3点が大切であることをあらためて理解しました。第一に、経営者の経営姿勢の確立が社員との信頼関係を築く出発点であること。第二に、経営指針の成文化とその全社的実践。第三に、社員を最も信頼できるパートナーと考え、高い次元の経営をめざし共に育ちあう教育(共育)的人間関係をうちたてること。

 そして、次のように経営者の責任を考えて、上っ面だけではなくて肉体化する覚悟をしました。
 一つ目。どんなに環境が厳しくとも、時代の変化に対応して、会社を維持し発展させる責任があること。いま考えると、失敗を全部社員のせいにしていました。これからは、郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、すべて社長の責任と覚悟しました。

 二つ目。会社の全機能をフルに発揮させて、企業発展に必要な生産と利益を確保するために、全力を傾注すること。あらためて経営指針書をつくり、対等な労使関係を樹立する必要性がわかりました。

 三つ目。社員の生活を保障し、社員の自発性が発揮される状態を会社内に確立すること。月給を払って生活を保障するだけでは、みんなの会社にはなりません。同友会では自立型社員を育てることが社長の仕事だと言われます。自分の頭で考えて、お客様に喜んでもらえる仕事をする社員が育つには、社長自身が変わらないといけません。

 亡くなられた中同協元会長の赤石義博さんは、「対等な労使関係の根っこは“共に育つ”ことだよ」という言葉を残されました。そしてこう言われました。「自主の根っこは“自由”、民主の根っこは “平等”、連帯の根っこは“博愛”、自由・平等・博愛を人間同士の中で進めることは、共に生きるということ。共に生きるために共に学ぶ、その結果、共に育っていく。『労使見解』の精神を実践していくと、全社一丸体制が確立され、経営が活発になって、利益も出るし、確信を持つことができます。社員と共に育つためには、共に学ぶしかない。共に学ぶということは、共に生きる課題をどう共有していくかということです」。この言葉に、ぐっときました。

宮城同友会の経営指針を創る会の特徴

 「第9期経営指針を創る会」から学んだことは、企業は人なり、会社は社長を含めた全社員が幸福になるためにあること、幸福になるためにはお客様第一で仕事をしなければならないし、社員の成長なくして会社の発展はないこと、会社の発展なくして社員の幸福はない、社長の最も重要な仕事は人育てであり社長は結果責任、社員は行動責任、ということです。いま100%実践できているかと言われれば自信はありませんが、日々格闘し続けています。

 宮城同友会の「経営指針を創る会」の特徴は、以下の4つです。
1.受講生を上回る修了生(先輩助言者)の参加。(自主的、手弁当を貫く)
2.次期の受講生に修了生としてかかわる(最も熱心な参加者)
3.専門家が一人もいない。全員が実践者(めざす人)。
4.火種を絶やさず実践し回流し発展させ運動まで広げてきた。

 教訓は、経営者として社員と正しく向き合う姿勢を確立するために、創る会では以下の3つを実践することです。
1.違いを認め、対等、平等でかかわること(先生や教える人ではない)
2.企業規模、会歴、立場は関係なく「共に育つ姿勢」を確立すること
3.経営者として相手の本心を素早く見抜く

生まれ変わった経営理念

 生まれ変わったわが社の経営理念を紹介します。

一、私たちは共に学び共に成長し、幸せな人生を実現できる自立した会社を目指します。(人間性)
一、私たちは人と人とのつながりを大切にし、明るく豊かな地域づくりに貢献します。(社会性)
一、私たちは自然との調和を図り、快適な生活環境を創造します。(科学性)

 そして、“建設業”から“快適生活環境創造業” へ事業の定義を見直し、「“建物を造る・建てるだけの仕事”から自然を大事にし、資源を大切にし、安全で安心して、気持ちよく、仲良く、幸せに、生活できる、仕事ができる環境を作り出す仕事がこれからのわが社の使命」であると定め、我が社は有限資源節約型・地球環境保全型経営をめざす快適生活環境創造企業だと言えるようになりました。

 スローガンは「楽しく早く安全に 良い仕事を安くお客様の身になって」。モットーは「人生はよかった探し、商売は困ったさがし、仕事は楽しく愉快に」です。

 「中期経営方針」で「よい会社仙台一」をめざすと宣言し、よい会社の定義を以下のように定めました。
1.経営理念が明確で、社内で共有されている。
2.お客様、取引先、地域社会からの信頼が厚い。
3.社員が生きがいや使命感、誇りを持って働いている。
4.どんな環境変化に直面しても雇用を守っている。
5.どんな環境変化に直面しても永続的に利益を出し続けられる。

業界・地域のリーディングカンパニーを増やす

 同友会で学んだことは、経営指針書とは会社の羅針盤であり、経営者の免許証であるということです。指針書を持っていないのは、無免許運転です。そして、経営指針書の実践とは、経営理念の実現をめざした経営方針(戦略)から経営計画(戦術)を具体化し、実行と反省を行って、また理念に立ち返るサイクルを回すことです。

 宮城同友会の目標は、業界・地域のリーディングカンパニーになることです。経営理念が確立され経営指針の全社的実践が進み、社員が生き生きと働き、お客様をはじめ地域の信頼も厚く、経営者が尊敬されている、ナイス(強く・しなやか)カンパニーづくりです。

 県内各地で魅力ある企業、魅力ある経営者が同友会で学んでおり、地域づくりにも熱心に取り組んでいるという姿をめざし、会員数2000名の同友会を目標としています。そのために、5本の柱(例会・経営指針を創る会・共同求人・社員教育・同友会大学)で総合的に勉強し、実践し、結果を出そうと言 っています。

地域に役立つ、必要とされる会社をめざして

 わが社で取り組んでいることを紹介します。
・「地域キレイ運動」月1回第1土曜日に8班に分かれて町内道路一斉清掃
・本社周辺(向い三軒両隣)キレイの徹底、1日4回(10時・12時・15時・17時)道路清掃
・「現場一日5回清掃」
・「明るく元気な挨拶」「スピード対応」の徹底
・「ふれあい大感謝際」11月に会社の敷地で、地域の皆さんとコミュニケーションをはかるために、1999年から続けています。
・2009年11月から年二回の「県民の森」下草刈

真の復興をめざして

 明確になってきたことは、大震災と復興の中での地域・企業づくりは、同友会の三つの目的の総合的実践の場であることです。そして、大企業と中小企業の役割を明確にし、地域に根ざした、地域のための、地域の人々による真の復興を実現するためには、中小企業憲章を背景にした中小企業振興基本条例を全ての自治体に早急に制定する運動を強力に進めなければならないことです。

 会社経営と同友会運動は車の両輪です。会社経営は片手にソロバン、片手にロマン、同友会運動は片手に経営指針、片手に中小企業憲章(中小企業振興条例)です。条例の負託に応えられる「よい会社」をつくり、夢と希望のもてる社会を次世代に残すために取り組んでいきたいと思います。

 最後に、北海道同友会の大久保尚孝氏(故人)が残された、同友会運動の合言葉“知り合い・学び合い・援けあい”“気張らず・急かず・諦めず、激動をよき友とする経営者になろう”を紹介して終わります。

会社概要

創 業:1955年
設 立:1978年
資本金:5,000万円
年 商:18億円
事業内容:総合建設業
従業員数:40名
所在地:宮城県仙台市若林区遠見塚2丁目27番9号
URL:http://www.samoto.co.jp/